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家族が新しくつくられる

ひとりたま

たまの誕生によって、わたしと夫は、それぞれ母と父になった。
親子という、新しい関係がつくられた。
それと同時に、義父母、わたしの実父母は、初めて祖父母という存在になった。
そして、彼らと、新しい関係が構築されることになった。
特に、実母、義母には、すべてをさらけ出し、家事、育児を全面的に支えてもらった。

台所というのは、少なくともわたしにとっては、生活の中の「ブレーン」。
わたしは食を大切にしている。こだわりの食材と調理道具の数々で構成されている我が家の台所。
ある意味、わたしにしかわからないようなもの、コトが多い。
例えば、我が家には砂糖がない。冷蔵庫には、怪しげな酵母のビンの山。20種類をゆうに超すスパイス。常時10種類以上ある豆。乾物の山。干し野菜のストック。
賞味期限がやたらと短い、保存料などがいっさい入っていない調味料たち。
カレーのルーや市販のドレッシングなどは置いていない(そのくせレトルトは存在する)。
義母にとっては理解不能なものばかりだったに違いない(ちなみに、わたしの食の師匠は、実母である)。
しかし、そのエッセンスを少しでも理解してもらわなければ、わたしが求める食事は得られない。
幸い、実母は、食のセンスに関しては完璧。わたしとシンクロしている。そもそも彼女はわたしより先に酵母使いだったのだから。

掃除は、わたしにとってさほど得意な分野ではない。
整理整頓は得意だが、ものを捨てる割り切りがあまり上手ではないので、増えゆくものたちを、いろいろな技を駆使して分類し、押し込めている。基本的にモノが多い。
ちなみに、これまでは「ほこりでは人は死なない」と言って、掃除機をかけるのはせいぜい週に1回程度だった。
義母はスーパー主婦だ。実に手際よく、スピーディーに、掃除、洗濯、洗い物などをやってくれる。
彼女は、「いくらからだにいい食事をしたって、ほこりまみれでアレルギーになったらしょうがない」と言って、毎日てきぱきとフローリングワイパーをかけてくれた。おかげで、家はいつもピカピカになった。

布おむつに関しても、夫、義母、実母は皆協力をしてくれた。
それぞれ洗い方は異なるが、汚れ物が出るとみなすぐにじゃぶじゃぶと洗ってくれて、きれいに汚れを落とした。
まっくろい佃煮のような胎便すら、シミ一つ残さず洗ってくれた。
おむつを天日に干して、ピシッと畳み、たまが心地よくおむつを装着できるよう、さまざまな配慮をしてくれた。

こうやって、「わたしが何を大切にしたいのか」を理解しようと努力し、応援してくれた母たち。
自ずと一緒にいる時間も長くなるので、今までよりも一歩踏み込んで、どう子育てをしたいのか、どういう生き方の志向を持っているのかなどを話す機会に恵まれた。
お互いに一歩ずつ近づくことができ、家族関係がより新しくなったように思う。

わたしは、母たちから、少しずつだがいろいろなことを吸収した。
義母からは、掃除のスキル。日々、やるべき家事をテキパキと積み重ねて、気持ちよく清々しく過ごすこと。
実母からは、料理のスキル。食材の組み合わせとバリエーション。そして、相手の体調や気持ちを思いやった料理をつくることの大切さ。
これは、長時間一緒に過ごし、彼女たちの働く姿を目の当たりにしたからこそ、得られたことだ。

自宅出産で、産後も徹底的にあらゆることを委ねることができたから、母たちと近づくことができた。
これは間違いなく、自宅出産だからこそ得られた、大きな成果と、宝だ。

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父が乳を与える

手の対比
(大好きな父ちゃんの手)


「目を使わない」
「水にさわらない」
「重いものをもたない」
この3か条が、最低限でも産後約3週間まで、できれば6週間は守りたい、の鉄の掟だった。
つまり、産婦は家事をしてはいけない。子育ても、できれば授乳とおむつ交換程度にとどめておきたい、ということだ。
家事の一切を取り仕切ってくれる存在が必要だった。
我が家の場合は、主に義母、そしてわたしの実母が徹底的にサポートしてくれたが、特筆すべきなのが夫の働きだった。
彼は、わたしが寝たきりの3日間、「父」としての役割と、「母」としての役割、どちらも担ってくれたのだった。

まず、わたし自身がまだ、授乳がうまくできない。起き上がることすらできないのだから、当然と言えば当然だ。
なので、乳頭吸引器でちょこちょことおっぱいをしぼり、それを小さなビーカーにためて、綿球にひたしてたまに乳を与えるのが、夫の重要な任務となった。
「たま~、めしだよー」といいながら、夫はたまに白湯と乳を交互に与え、たまは、小さなのどをごくごくと鳴らすようになった。
彼女は大きな目を見開いて、夫の顔を見つめながら、必死で少量の乳を飲んでいた。
わたしが初めて自分の乳を与えることができたのは、産後3日目、起き上がってからだった。
その時の感動は忘れられない。自分の乳を与えられるようになって、初めて母親スイッチがオンになると言っても過言ではなかった。

ところが、安定して授乳タイムが送れるようになるには、もう少し時間が必要だった。
授乳にはちょっとしたコツが必要だ。
どのように抱いたらいいのか、どの角度で乳首をくわえさせたらいいのか、わからない。
第一、当時のたまには、おっぱいに吸い付く力がない。
お互いにうまくいかなくて、わたしは焦る。おっぱいを押し付ける。たまは泣く。そして飲まない。飲んでもすぐに吐き出す。
悪循環のループだった。

結局、一度や二度授乳が成功しても、ごくごく飲むにはほど遠く、夫が綿球で授乳する日々が続いた。
しかし、綿球では、飲んでもせいぜい10ml程度だ。これで、本当にたまのからだに必要な栄養が供給できているのだろうか?
そもそも小さく生まれてきたたま。生理的体重減少もあり、体重は2020gまで落ちた。かなり心配な状態だった。
それでもわたしたちは、たまを生かさなければならない。夫は辛抱強く、たまに乳を与えた。
うまく授乳できないことにわたしは焦り、精神的に参りそうだった。
乳が乳房にたまり、固く大きくなり、少しずつ痛くなり始めていた。
わたしはたまにおっぱいを吸ってほしくて、一生懸命パイを押し付けた。
その形相は、必死だったらしい。怖かったらしい。当然、たまは泣く。
夫曰く、「たまにとっては、巨大な宇宙船が襲来するかのような恐ろしさだったに違いない」
そして、ついにはわたし、決壊。産後4日目の夜に大泣きしてしまった。

翌朝、純子先生の検診があった。肩の力を抜いて、乳房とたまの鼻の間に空気層をつくった。赤ちゃんが乳首にカプッとくわえつけるよう、うまいタイミングのつかみ方を教えてくれた。
そこから、ようやく授乳がうまくいくようになった。
たまは、母から乳を直接もらえるようになったのだ。

試行錯誤しながらも、徐々に授乳がうまくいくようになった。それに連れ、わたしの精神状態も安定するようになった。
しかし、しばらくの間は、たまにとっては「父 > 母」だった。
やはり、生後数日の間、自分の命をつなぎとめてくれた、育んでくれた存在が誰であるのか、賢いたまはよくわかっているようだった。
「母 > 父」となったのを確信したのは、産後2カ月以上経ってからだろうか。
たまを抱く、あやす、遊ぶ…すべてにおいて、夫の行動は理にかなっており、たまにとっても心地よいようだった。

自宅出産でたいへんだったこと

R0013484.jpg
(生後1日。いたいけな存在…)

自宅出産はともかくリラックスできる、自分が自分のままでいられるなど、メリットはいっぱいある。
ただ、いいことだけではない。いいことが多い分、たいへんな面もある。
それを乗り越えるには、強靭な精神力と体力が必要だ。
少なくともわたしはヘタレだ。精神的にタフな夫がいたからこそ、何とか乗り越えられたと思う。
特に初めてのお産の場合、何もかもがわからないことだらけ。
これでいいの? と、不安なことも多い。

わたしが経験したなかでたいへんだったことを挙げてみる。


(1)準備は早めに!
お産は、ホントにいつ始まるかわからない。
バースハーモニーの場合、37週でクリニックの許可が出てからがお産となるが、できればその前から準備はしておいたほうがいい。
わたしの場合、37週2日で産んでしまった。
たいてい、赤ちゃんグッズや生活の細々とした用品のありかを知っているのは、産後に動けない産婦なのだ。
そのため、少なくともお世話グッズだけは夫、あるいは世話をしてくれる家族にありかを知らせておく。
できれば、台所の見取り図を用意する、使ってよい調味料などをより分けておく必要もあるだろう。産後の食事は大切なのだから。

(2)産後、起き上がれない時期のサポート
バースハーモニーのお産が特殊といえば特殊だが(産後数日間は寝たきりでトイレにも行けない)、しかし産婦は産後すぐは、できるだけ安静にする必要がある。
わたしの母は、「手術直後の重病人くらいのつもりで扱った方がいい」と言っていたが、まさにその通り。
産後の数日を完璧に休養することで、その後の回復がまったく違う。
病院などでは産後すぐに起き上がり、退院したらすぐに家事をする人もいるらしいが、もしサポートの手があるのならば、できればゆっくり休んでおいたほうがいい。
骨盤を含め、史上最大の重労働をしたからだを徐々に戻していく。余計な負荷をかけると、更年期に出てくるという。

食事はもちろん、からだの清拭、下の世話など、大人としてのプライドをかなぐり捨てるようなところがあるが、「人に委ねる」ということができるようになると、人生観が変わる。
(これについては後述する)

ただ、寝たきりの時期は特に、指示は的確に。
徹底的に甘えるほうがいい。わがままを言ってもいい。
中途半端に、「難しいならいいです」とか、「どっちでもいい」などは言わない方がいい。
お粥はもっと熱くしてほしい、とか、番茶が濃いので水を足して、とか、部屋の温度をもう少し高く、とか、加湿器の水を取り替えて、とか。
遠慮をせずに、具体的な指示が、手伝ってくれる人にとってもありがたいと思う。

(3)初産の場合は、わからないことだらけ。
初めての出産は、ともかく、すべてが初めてのことだらけだ。
赤ちゃんの体温がどのくらいなのか、体温のはかりかた、おむつのあてかた、おっぱいの飲ませ方、赤ちゃんの睡眠のパターン、どんな時に泣くのか、室温や湿度はどのくらいに保てばいいのか、服は何枚くらい着させるのか、汗はかくのか、よだれは出すのか、などなど。。。

例えば、泣いた時の要求がわからない。
もしかしたら具合が悪いのかもしれないと思う。
また、たくさん眠ったとしたら、それはそれで心配になる。

最初の一週間、「赤ちゃんとはこういう生物なのだ」ということが何となく理解できるまでは、不安で仕方なかった(わたしの場合)。
小さなことで何度も助産師さんに相談の電話をした。
病院ならば、少なくともすぐに看護師さんが来てくれるだろうし、「自分たちで何とかしなければならない」という状況ではないだろうから、「小さな命がすべて自分の双肩にかかっている」というプレッシャーは感じずに済むだろう(あくまでも想像だが……)。

また、意外とおばあちゃんたちの経験談はあてにならない。
自分たちが生まれた30年以上前とは、子育ての方向性も、家にある電化製品の種類も、環境も、洋服のボタンのかけ方も、全部違う。
(例えばわたしたちの子どものころは、日光浴は当たり前だった。今は紫外線に当ててはいけないと推奨されない)
それでも、子育て経験のあるおばあちゃんたちは、すぐに新しいやり方に慣れるだろう。だからその点では心配することはない。

不安になったり、わからないことがあれば、すぐに助産師さんや、最近出産した先輩ママに聞くのがいちばんだと思う。

自宅出産のメリット

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(出産直後のたま)


出産前夜からたま・命名までの怒濤の一週間をドキュメントした。
疾風怒涛の日々。人生で最大の山場といっても過言ではなかった。

自宅出産を経験して、「ああ、自宅出産でよかった」と思うことが幾つかある。
精神論、自分を成長させてくれたこと、家族の絆が深まったことなど、いろいろあるが、まずは現実的なメリットを挙げてみようと思う。

(1)移動しなくていい!
わたしの場合、お産が超・早かった。
あれあれ、陣痛がどんどん強くなってきたぞ、と思う間に、気づいたらピークまできていた。
「こりゃ、本当にお産が始まる!」と思って、助産師さんに電話をしてすぐに破水。助産師さん到着時にはすでに頭が見えていて、わずか15分で出産。

これ、フツーに病院で産むとしたら……
「こりゃ、本当にお産が始まる!」と思って、病院に電話して、車(orタクシー)に乗り込む。
まず、階段を下りられないよ(我が家はエレベーターなしの4階)。。。
そして、車の中で破水?
車の振動でお産が進む? もしかして、頭が出てきちゃってるかも……。

自宅だったら、破水しても自分の服が濡れただけで、すぐに脱いで洗濯機に放り込むだけだった。
あんなに一気に陣痛のピークがきて、そこから移動だなんて、無理無理!!
万が一産まれてきちゃっても、車の中よりはまだいいような気がする。

(2)人目を気にしなくてよい!
正直、出産というのは、人目を気にしてなんかられない行為だ。
ほとんど動物のようになる。
声を上げるし、汗をかくし、しかめっつらになるし、髪の毛は千々に乱れて、少なくとも自分の出産シーンは、美しくなかった(笑)。
自宅なら、心置きなく暴れられる。
自宅出産の前は、「夜中に大声をあげるようなことになったら近所迷惑になるかしら……」なんて考えたものだけれども、実際に始まってみたらそんなことを気にする余裕はなかった。
お隣のおじさんは夜中にギターをかき鳴らすのだから、それに比べたら可愛いもんだ(笑)。

ただ、自分のお産を写真に残す場合は、やっぱり人目は気にした方がよい。
最低限、「勝負パジャマ」なる出産服くらいは、いいものを着るべし。
毛玉のフリース、五本指ソックス着用でのお産……。嗚呼、失敗した……。

(3)リラックスできる。
ともかく、これに尽きる。
わたしは、出産の際は、母にも、義母にも、付き添ってほしくなかったので、最初から断っておいた(ま、立ち合ってもらうにしても間に合わなかったけど)。
夫と助産師さんだけで臨みたかった。
ともかく、出産とは、プライバシーの最たるものだと思っている。
自分を全部裸にして、野生の本能を丸出しにして、生命をこの世に送り出すわけだから。
そんな瞬間を、母や義母のように大切な人と共有するのはステキなことかもしれないけれど、わたしは、お産とはイベントではなく、もっと根源的な、男女の秘め事のような気がするのだ。その行為に、母はいらない、というか。
助産師さんは、その場に入ることを許された特別な存在だ。

暗い部屋で、赤ん坊を産み落とす。
これが、煌々と明かりのついた部屋で、衆目の集まるところで股を全開にして産み出す病院のお産とは違うところだ。
あくまでも、自分がいつも寝起きしている、いちばんリラックスできる場所、自分がいちばんわかっている場所で産む。
それは、とても幸せなことだ。
どこまでも、自分が「すっぴん」でいられるお産が、自宅出産だった。

たま出産ドキュメント(6) ~寒い部屋と、冷たい娘~

命名


誕生初日は、ひたすら感動ばかりして過ぎていった。
突然にやってきたたまに、大の大人5人がかしずき、右往左往する。
動けない新米母のみが取り残され、じじばばばば、父は常に大忙しだ。
あまりにも何も準備されていない我が家。何が、どこにあるのか、誰も把握できていない状況で、家の主は寝たきりだ。
誰もができることをやろうと一生懸命だったし、また、小さいたまが動いたり、あくびをしたり、か細い声で泣いたりすると、それだけで拍手喝采の大騒ぎだった。

部屋の外の喧騒が、気にならないわけではなかった。
テキパキと動く義父母に、わたしのことを思いやりすぎて仕事がおぼつかない実母。
双方のペースの違いを、思いやって、気をもんだ。
夫はみんない気を使いながら、仕事をしつつ、わたしとたまのケアをしてくれた。
指示や疑問が部屋の外で行き交っている。それが気になってならなかった。わたしがやれば、すぐにできるのに。わたしがちゃんと準備できていれば、こんなにみんなを煩わせることもなかったのに。
わたしは寝たきりで、からだを起こすこともできず、寝返りもはばかられる状況で、娘のおむつ換えや授乳すらできない。
ただただ、小さな寝息をたてているたまを眺めては、「よく生まれてきたねえ」と感じ入るばかり。それも、真正面の顔を見られるわけではなく、横から見ることしかできない(動けないから)。
まだ乳も出なくて、夫が白湯を綿球に含ませて、たまに水分補給をしていた。
たまは夫の顔をじっと見つめ、チュパチュパと美味しそうに水を吸っていた。でも、これで足りているのか、心配だった。小さな体はそれほどたくさんの水を飲めないようだった。
だんだん、「早く起き上がりたい」という気持ちが強くなってきていた。
何もできない自分にいらだち、焦りが生じるようになっていた。

たまが生まれた次の日の夜には、わたしのイライラともどかしさはピークに達した。
たまは小さくて、用意していた肌着はすべてブカブカ。肌着の中で細い腕が泳ぐ。
おむつカバーもブカブカ。マジックテープがおなかの回りで交差する。
水通しすらできていない肌着を何枚か選んで重ね合わせ、着させるのだが、肌にフィットしないからか、たまは気持ち悪くて泣いていた。
肌着をうまく着させられない実母に対して、「不器用だ」とイライラし、その気持ちをあらわにしてしまった。そして泣いた。
骨盤はまだ揃わなかった。起き上がることができるのは、もう少し先のようだった。

たまの生誕から2日。初めての土曜日。
午前中に訪問検診のために来た助産師さんより、「体温が低いのが気になる……。湯たんぽなどで温めて」とアドバイスを受ける。
湯たんぽをセッティングし、部屋を暖めたところで、出産までの疲れがどっと出る。
よくよく考えてみると、1月21日未明からずっと、前駆陣痛、本番陣痛と出産、怒濤の産後……と続き、夫はその間ほとんど不眠不休状態、わたしも人生最大の大仕事に、疲れが出始めていた。
前夜、実母に八つ当たりしたおかげで精神状態もやや安定し(申し訳ない話だが)、落ち着いて体温を測り3回目の体温が揃い、正座をして骨盤を直した。一段落がついたのだ。明日朝には起き上がれる。
一度、誰にも患わされることなくゆっくり眠りたいと、夫もわたしも携帯電話の電源を切り、泥のように眠った。

起きて携帯電話の電源を入れると、純子先生から何度も着信がある。
何ごとだろうと思って折り返した。すると、すさまじい剣幕でまくし立てられた。衝撃が走った。
「生まれたての赤ちゃんの低体温は非常にまずいこと! とても心配です。湯たんぽだけじゃなくて、まどかさんがしっかり抱きしめて、人肌にふれて温めて! 大人が暑いと思って室温を下げるのではなくて、新生児に合わせて!」
……と。
たまの体温は、35.5度くらいだった。赤ちゃんの体温は36.5~37.5度くらいが平熱。脂肪が少ない低体重児は、特に気をつけて室温、湿度を管理しなければならない。
「暗いハワイ」が理想的。室温25~27度、湿度70%くらいを目標に、とのことだった。
わたしたちは「ちょっと暑いね」と、23度程度の室温にしていたのだ。この温度は、大人にとって快適な暖かさだった。

「ハワイ」にはオイルヒーターだけでは力不足だったので、エアコンを高い温度で設定し、加湿器をフル稼働させ、そのうえで毛布をかぶってたまを抱き寄せた。わたしは汗と涙でぐしゃぐしゃに濡れた。
わたしが無知だったために、小さなたまに寒い思いをさせてしまった。ごめんね。
昨日の夜はあんなに元気でかわいい表情を見せてくれたのに、今日はやたらと大人しい。心なしか顔も白い。もしかしたら、危険信号なのか……???
不安にかられた。そして、激しく緊張した。
この日、山形から実父がたまに会うために日帰りでやってきたが、わたしたちはたまの体温を上げるために必死で、実父は5分も面会ができなかった。
「今はそれどころじゃない! あっちに行っていて」と邪険にしてしまったが、わたしたちは、娘の一大事をどうにか乗り越えなければならなかったのだ。

純子先生の電話から3時間後、たまの体温が上がった。37度を超して、ふにゃふにゃ泣く。そして、綿球からゴクゴク水を飲んだ。
……大丈夫だ! 
夫と二人、不安と緊張の汗と涙が、安堵の涙に変わった。

夜中になってようやく、水だけでなく、初乳を綿球から飲むようになった。
たまの目に、少しずつ力が入るようになってきた。
夫と、ほっとため息をついた。
そして、ようやく、たまの名前を決めようということになった。
それまで、胎児名の「ミジンコ」と呼んでいたのだ。

それぞれが考えていた候補の名前を、互いに知らせずに紙に書き出す。
一致していたものがあればそれに決定しよう、ということにしたら、お互いの第一候補の名前が一致した。
それが、「たまき」だ。
わたしの名「まどか」に通じる名前。ひらがな3文字。
まどかは、「円」という意味だ。まるい。まろやか。
たまきは「環」という意味だ。まるい。循環。環境。
大きな環の一部として生きる。まあるく生きる。そんな願いが込められている。


わたしたちは最初は気恥ずかしく、娘の名前を呼んだ。「たま」と。
それから、うれしくなって、何度も何度も「たまちゃん」と呼んだ。
わたしたちの娘に名前がついて、「たま」の人生が始まった。

たま出産ドキュメント(5) ~興奮の嵐~

出産直後

純子先生たちが帰り、朝日が降り注ぐ部屋で新しい生活がスタートしたわたしたち。
ベッドの上には、ふにゃふにゃしている小さなたま。
そして、身動きがとれないわたし。

なぜ身動きがとれないかというと、出産直後の女性には安静が何より大切だという考えから。
バースハーモニーのお産では、産後、骨盤がそろうまでの3~7日間(人によってタイミングが異なる)は、トイレに立つことはおろか、体を起こして授乳することもできない。
この期間を完全に寝て過ごすことで、出産によって最大限に開いた骨盤を元に戻す、いや、元に戻すどころか、歪んでしまった骨盤が「本来あるべき位置に戻る」ように調整するのだ。
人によっては、お尻がワンサイズ以上引き締まることがあるという。
おそらく、この「骨盤直し」という名目上、産婦が徹底的に寝て過ごすことで、骨盤直し以上の休息、産後の回復を保証することになるのだろう。

ともかく、わたしはおむつをあてられ、寝たきりだった。
たまが泣こうが、おむつを濡らそうが、わたしは何もできない。
ただ、たまを見て、夫を呼び、彼が働くのを眺めるだけだ。
産後は目を使ってはいけないので(目を使うということは、大量の血が目や脳に行き交うことでもある。産後は「血」を使うことはNGなのだ)、コンタクトレンズはもってのほか。
眼鏡をかけるのがもどかしいので、ほとんど何も見えないような状態で、ぼんやりと過ごすほかなかった。

夫は普段から、家の中のどこに何があるのかを把握していない人だ。
ベビーグッズや調理道具のありかはちんぷんかんぷん。
なのに、妻は起き上がりもせず、「あれ持ってきて」と顎でこき使うばかり。
しかし彼はいらだちもせず、ひたすら妻と娘のために尽くす。
子育ては初めてのはずなのに、実に手際よくたまのおむつを換え、わたしに白湯を運んでくる。
夫の献身的な働きに、わたしは感動して涙を浮かべながら彼を褒め称える。

しばらくして、夫の両親がやってきた。
夕方には、山形からわたしの母が到着し、たまとの感動の対面。
誰もが皆、「信じられない」といった風で、生まれたばかりのたまを眺めていた。
せまい団地の一室を、おおぜいの大人が行き交う。
家の中はぐちゃぐちゃ。たまの着る服がどこにあるのか。いろんな種類のおむつがあるが、どれを使えばいいのか。わたし以外は誰もわからない。問い合わせと指示の連続。
何ごとにおいても手際がよく、テキパキと動く義父母は、朝からさっそく、家の中を整理整頓し始めた。
部屋の中に風を通し、掃除をし、汚れ物の洗濯をし、わたしのケア、たまの胎便がついたおむつを洗ってくれた。
わたしの母は、のんびりと、料理を手伝ってくれた。
我が家にある家電の使い方に四苦八苦し、また、誰がどのように食事をするのか、そしてわたしの産後回復食はどうすればいいのか(3日間は玄米粥のみ、と言われていた。それで足りるのかと心配する親たちに、理由はあとから話すからともかくそれを遵守したいとの旨を話した)、たまの食事(まだおっぱいが出ない)はどうするのかなど、あれこれ、試行錯誤のやりとりが行われていた。
誰もが、自分にできることを精一杯やっている。たまのために、わたしのために。
大きな混乱のなかだけれども、しかしそこには、確かな喜びがあった。

寝たきりのわたしは、小さいたまが、動いたり、小さな声をあげたりするたびに、感動して涙を流していた。
親たちの喧騒をよそに、寝室でのんびり過ごしていた。
そして誰か彼かが入れ替わり立ち替わり寝室にやってきて、たまを眺めては「かわいいかわいい」を連呼し、興奮状態にあった。

……でも、たまは小さな小さな、そしてか弱い存在だった。
暗く、静かで、温かな胎内にいたたまが生まれた場所は、真冬のおんぼろ団地の一室。そして明るく賑やかな家庭。
彼女がその環境に順応するには、まだ早すぎたのだ。

たま出産ドキュメント(4) ~自立したたま~

胎盤


真っ赤なたまがわたしのおなかの上にのった。わたしはおっぱいを吸ってほしくて、パイを丸出しにしていた。
おなかの上で、確かに小さな生命体が蠢いているのがわかる。おっぱい近くまできて、ちょん、と口をつけたかどうか。これも、興奮して覚えていない。

おそらく、純子先生がたまのからだについた血や胎脂をきれいにしてくれたのだろう。
きれいになったたまと一緒に、彼女のへその緒の拍動が止まるのを待つ。
すでにわたしのからだから出た胎盤にまだつながっているたま。
たまがおなかの中にいる間、わたしの食べたもの、血液、養分を、酸素を、生きるための全てをたまに送ってくれていた胎盤。
この両者をつなぐ透き通った青白いコードが、まだかすかに脈打っている。
へその緒は、拍動が少しずつ小さくなるのとともに、その役割を終えようとしている。
拍動が止まったその瞬間が、たまが、自立する時だ。
自分で呼吸をして、自分でおっぱいを吸って、自分の力で生きなければならない。
病院では産まれてすぐに切るへその緒。しかし、バースハーモニーの自宅出産では、赤ちゃんが自分の力で呼吸できるようになるその時を待ってくれる。
まさに、「赤ちゃんが産まれてきたい時」「赤ちゃんが自分で呼吸する瞬間」を「待つ」お産なのだ。
胎盤とたまを分かつのは、夫の役割となった。
そうっと、へその緒にはさみを入れる。
特に音もせず、痛そうでもなく、静かに、胎盤はその役割を終えた。

そうしてたまは、初めて「たま」という個人になった。

純子先生が吊り秤でたまの体重を量る。
「…小さいね。病院だったら保育器行きだったよ」
と言われる。最初はその意味がわからなかった。
たまは2330gで産まれた。一般に2500g以下で産まれた子どもを「低出生体重児」といい、特別なケアを必要とする場合が多いのだという。
病院だったら保育器に入り、一定に保たれた温度湿度の中で過ごす。そして体重が増えて安定した状態になったらようやく退院できるのだそうな。
要は、体重が少ない分脂肪も少なく、熱を蓄えておくのが大きな子に比べて上手でない。体温調整をしっかりしてあげなければならないのだ。
しかし、わたしたちは、自分の子どもが低出生体重児で産まれてくるなどと考えてもみず、また、そのことに対する認識もあまく、その時はただ、たまが産まれてきた興奮でいっぱいだった。それだけだった。

わたしのからだから出た胎盤を食べてみることにした。
レバーのような、上質の馬刺しのような、濃厚なんだけど臭みもなく、とても美味しい肉塊だった。
お産に備えて長い間玄米菜食を徹底していたわたしが、肉を食む不思議。
胎盤は、天然の子宮収縮剤だという。
動物は出産後、自分で自分の胎盤を食べてからだをケアする。
それと同じことなんだなあ、と、何となく納得しながら、たいへん美味しく、久々の肉の味を堪能した。

時々、おなかがキューッと縮まっていくのを感じた。
これが、後陣痛というものか。
急速に子宮が元に戻ろうとしているのを感じる。結構痛い。
8カ月かけて大きくなったおなかの皮はどうなっているんだろう? ぶよぶよしているのか?
気になってさわってみると、意外と固く、戻ってきている。

そういえば、わたしはこれから数日間、おむつで過ごさなければならないのだ。
おむつの準備すらしていなかった。助産師の楠本さんがわざわざ助産院まで戻っておむつをとってきてくれた。
おむつ用に着用するネグリジェすら用意しておらず、結局、おむつの上にバスタオルをラップスカート風に巻いてしのいだ。
恰好なんてどうでもいいや。もう、どうにでもなれ。
そんな、あられもない姿でわたしは数日間横たわることになる。


気がついたら、夜が明けていた。
諸々の後片づけを終え、純子先生たちは我が家を去った。次に来るのは翌日だという。
興奮状態のまま小さなたまと一緒に新米父母は取り残された。
かわいい我が子を迎える準備もできていない、親になる心の準備もろくにできていな状態で、いきなり、たまとの生活がスタートした。


たま出産ドキュメント(3) ~その時は、あっという間にやってきた~

ひとみの花


「頭が見えているよ」
純子先生の言葉に、ああ、そうか、と納得する。
もう、いよいよお産なのだ。この痛みは出産の痛みだったのだ。ミジンコ(たまの胎児名)は今、産まれようとしているんだ。
となれば、途端に気が軽くなった。あとちょっとでこの痛みは終わる。そして、人生の新しいステージが始まるんだ。
ベッドにシートが敷かれて腰を浮かせた状態のまま、横向きになって足を上げ、そのまま、側臥位で出産することになった。

もう一度、強い痛みが来た。股の間が灼けるように熱い。ああ、開いているんだな、頭が出てこようとしているんだな、というのがわかる。
巨大なうんちが出そう、そんな感覚(笑)。
「ハッハッハッ」と言われる。
ハッハッハ…というのは、逃す呼吸だ。短距離走でいうところの、ゴールした後の流しみたいなもんか。北京オリンピック100メートル走のウサイン・ボルトのラスト20メートルの走りみたいなイメージだ。
夫はその間、ビデオを片手にベッドの上を八艘飛びしていた。ビデオを撮ったり、「あれない! これが必要!」の声に右往左往したり、「それより手を握っていてあげて!」の声に促されたり。
わたしは、「ビデオはいいから、しっかり目に焼き付けておいて!」と願っていた。しかし彼は、その瞬間をどうしても自らの手で残したかったようだ。

2回痛みが来て、2回「ハッハッハッ」と逃して、スルリ! と生温かな物体が滑り落ちたような気がした。
最高に熱い股が、急に楽になった。あれ? って感じ。
「産まれたよ!」
たまが、産まれた。純子先生が到着し、わずか15分。1月22日、午前4時39分に、たまは産まれた。

「ええ~、もう産まれたの? 本当に産まれちゃったの?」
これが、わたしの本音だ。陣痛との別れはあまりにも呆気なかった。最高の快感を味わうどころではなかった。
夫の顔を見たら、大きな目からポロポロ涙をこぼしていた。彼のこんな顔は、いまだかつて見たことがない。それだけで、胸がじーんといっぱいになった。
我が子の顔はどんなだろう。泣き声は?

うにゃうにゃ言っている。
ギャーギャー泣いているわけじゃない。でも、確かに生きている。

コンタクトをしていないから、よく見えない。
でも、赤い赤ちゃんがいる。小さい。何だか信じられなくて、興奮していて、涙が出てきた。
そしてたまは、すぐ、わたしのおなかの上にのった。
温かくて、小さくて、それなのに、小さい手はわたしのからだをキュッとつかもうとしている。
……絶対的にかわいい! 
たまがおなかにのった瞬間に、わたしは、この子の母親なんだ! というスイッチが入った。

出産直後、ぬるい梅醤番茶を飲んだ。そしてすぐに、たまの誕生から2分後に、胎盤が出てきたようだ。
実は、その時の感覚はほとんどない。
わたしのおなかのなかあって、たまの命をつないでくれていた胎盤。
約500gという巨大な塊が子宮から出てきたというのに、感覚も感慨もほとんどなかったというのはどういうわけか。
たまの誕生があまりにもインパクトが強すぎて、半分、「うそだろ~」みたいな感じで、正直、夢見心地というか、半信半疑というか、痛みもすっかり忘れてしまうような、相当なハイテンション状態だった。


こんなに急に産まれてきちゃうなんて。
母以上のせっかち娘だな、この子は……。
ともかく、自分に起きたことを理解もできないまま、そして、何も準備がなされてない家に、たまはやってきてしまった。

たま出産ドキュメント(2) ~頭が見えている~

朝露

明日、半日仕事をがんばれば、あとは残り少ない妊娠期間を満喫できる……。
そう思って床についたのが、1月22日の午前零時ごろ。
その日、明け方から前駆陣痛に突き合わされていた夫は、疲れ果ててすでに夢の中。
彼を起こさないようにそーっと布団に入り、目をつむる。

しかし、眠れない。
お腹がきゅーっと痛む。収縮しているのがわかる。生理痛のような鈍い痛みが、定期的にやってくる。
ああ、今日一日、疲れがたまっていたからなあ。また前駆陣痛だろうなあ。
そう思って目をつむるが、痛みは収まるどころか、どんどん強くなってくる。
結局、眠れる状況になく、夜中1時ごろ、布団から起きてリビングの炬燵に寝そべりながら痛みを味わうことにする。

痛みは、定期的にやってきて、確実に強まってきていた。
1時半ごろにはだいぶ痛くなり、痛みを逃すために「ふう~」と、大きな息を吐いた。
助産院の呼吸教室では、「息を吐くということは、手放すこと。大きく声を出して、今、自分に起きていることに対して抵抗しないこと」と習った。
声を出して、手放す。「う゛~」じゃなくて「あ゛~」と声を出して、力を抜く。
このころはまだ、自分で、陣痛がきた時間をメモにとる余裕があった。
2時半ごろには、わたしの大きな声に夫が起きてきた。このころには相当痛みが強くなっていた。

だが、これが本当に陣痛なのか、前駆陣痛なのか、わからない。
痛みの間隔はまだ7分。かと思えば次は5分だったり、10分空いたり。よくわからない。
時間も時間なので、助産院に電話をするのははばかられる。
だって、予定日まであと3週間近くある。
昨日血液検査をしたばかりで、今日お産だなんて……あまりにも早すぎる。
まだ我慢できる痛み…かもしれないから、もうちょっと様子をみよう。夜が明けても痛かったら電話しよう、などと言っていた。

痛みの間には、エンドルフィンというホルモンが出て素晴らしい快感を味わえることがあるという。
お産は、最高のエクスタシーであるという話も聞いていた。
それが味わえるのか? と、やや期待をしていた。このころは。

しかし、痛みは強くなるばかり。
何度も便意を催しトイレに駆け込むが、だんだん動くのすらつらくなってくる。自分自身が痛みに支配されていくのがわかる。
「…もう、限界!」と、助産師さんの自宅に電話したのが3時50分。
自分で話すこともできないくらいで、夫に話をしてもらう。
「しゃれにならない痛み!」とだけ叫んで、ともかくすぐに来てもらうように言う。

電話を切るや否や、「パン!」という音がして、股の間が生暖かくなった。
「破水した!」
リビングの炬燵の脇に置いていた座椅子を倒してベッド代わりにしていたが、それが、少し濡れた。
ああ、本当にお産が始まるんだ、と思った。
いよいよ寝室に移動しなければ。でも、動くのがつらい…。
もうすでに何分間隔かわからないくらいの強い痛みの間に、よたよたしながら寝室に移動する。
「痛い痛い痛い~!」と叫ぶわたしに、「頼むから、助産師さんが来るまでがんばって!」と夫。「産まないでくれ」というのが本音だったのだろう。


…当然、お産の準備は何もできていない。
ウォーターサーバーの水は、翌日来る予定だった。
赤ちゃんの肌着の水通しすらしていなかった。
せっかく買ったオイルヒーターは仕事場に置いたまま。寝室にすら移動していなかった。
純子先生の旦那さんにお産の写真を撮ってもらう予定で、勝負パジャマを買おうと思っていたが、その時着ていたのはよりによっていちばん汚らしいジャージと長袖Tシャツ、そして毛玉だらけのフリースベスト。
部屋の掃除すらしておらず、埃が舞うなかでの出産???

夫は、陣痛の合間に、出産の準備をあれこれしていた。
何がどこにあるのかわからない。何が必要なのかもわからない。わたしも、指示すらできない。
ほとんどパニックに近い状況の中で、彼は、一生懸命できることをやっていた。
わたしとて、それどころじゃない。股の間が焼けるように熱く、大きな塊が下りてきているのがわかる。
意識して止めなければ、産まれてしまう。
ともかく、純子先生が来るまで待ってくれ! 産まないようにするので精一杯だった。

ピンポーン。
純子先生と夫のkazzさん、助産師の楠本さんが来たのが、4時20分。電話をしてから30分後。
その時、午前4時20分。
すぐに内診をした純子先生。
「……頭が見えている」。

たま出産ドキュメント(1) ~出産前夜編~

出産直前


36週6日。産婦人科の最終検診で、何も問題がなければ「自宅出産OK」の太鼓判が押される日。
NST(ノンストレステスト=陣痛がない状態でお腹にセンサーをつけ、赤ちゃんの心拍を確認する)でも特に問題はなさそうで、内診では「赤ちゃんは相変わらず下がっているけれど、子宮口は閉じているので、今週来週に産まれることはないでしょう」と、産婦人科のDr.。
ところが最後に、「血小板の数値が低いんです。このままだと、自己血を輸血しながら病院での出産となります」と言われてしまった。
そして、その場で採血。翌日には結果が出るという。

翌、37週0日。
助産院の院長の訪問健診の日。自宅の状況チェックをしてもらい、自宅出産の準備を始める予定の日だ。
朝は仕事で打ち合わせがあったため、外出。
その間、純子先生(助産院院長)から何度も電話があり、再検査の数値も低かったので、近くの大学病院で詳細な血液検査をしてくれ、と指示を受ける。
ただ、「以前一度血小板の数値が低い人を扱ったけれど、わたしの感覚ではまったく問題ないと思う」とおっしゃる。
確かに、バースハーモニーのお産は、「出血しないお産」。そのためにいっさいの砂糖と果物を断っているのだから……。

大学病院に問い合わせたところ、産婦人科からの紹介状が必要とのことで、もう一度クリニックに行くことに。
夕方、クリニックに到着。純子先生も来てくれる。
そこで、クリニックの院長から、「血小板減少症の場合、うちでは取り扱いたくない事例。過去に1例だけあったが、その人は医大に行ってそのまま戻ってこなかった(医大での出産となった)」と言われる。ショックを受ける。純子先生もやや呆然。
ともかく翌日、医大に血液検査に行くことになった。

「ムダになるかもしれないけど……」と言いつつ、純子先生、そのまま我が家で訪問健診。
頭蓋仙骨療法で、足や骨盤、頭などをケアしてもらう。
「骨盤がとても柔軟になっている。いいお産ができるからだなのに……」とおっしゃるその手から、「血小板の数値が上がりますように。自宅でお産できますように」と、強い念を感じる。
「もし医大でのお産になっても、服部クリニックでもお産になっても、できる限りのケアをするから!」と、力強い言葉をいただき、涙が出る。ああ、この人に赤ちゃんを取り上げてもらいたい、と。。。

施術が終わり、出産準備グッズの山を見ながら、再検査の値が良好であることを純子先生とともに祈る。
ふと、ホメオパシーの話になる。
バースハーモニーではホメオパシーの勉強会を開催している。
わたしも以前からホメオパシーに興味があり、ジョージ・ヴィソルカス氏ののかなり難しい本を読み、LCCHの通信講座も修了している、なんて話をしながら、以前、オーストリア在住のホメオパスに処方してもらったコンスティチューショナル・レメディ(その人の唯一の根本レメディ)が1粒残っていることを思い出す。
「飲んでみたら、それ……。今がその時じゃないの?」と、純子先生。
そうだ、そうかもしれない。ダメで元々だ。やってみよう。。。
本来ならばホメオパスに相談すべきことなのかもしれないが、今がわたしにとっての正念場。オーストリアからの返信を待つ余裕はない。
純子先生の帰宅後、レメディを飲む。


その晩、夫と状況を話し合うも、「37週まできて……」とショックで、なかなか気持ちが落ち着かない。
一方で、「思う通りのお産ができなくても、今までやってきた食事やからだづくりは、まったくムダではない。大事なのは、赤ちゃんが無事に産まれてくること」という点を確認する。
まだ仕事が残ってはいたが、このような状況ではとても原稿を書く気にはなれなかった。

その晩、お風呂で乳首マッサージをすると、うっすらと初乳のようなものが滲み出る。
夫と一緒に床につくも、夜中4時ごろ、生理痛のようなお腹の痛みで目が覚める。
もしや……前駆陣痛では? と思う。確かに、数十秒の痛みが繰り返し続く。
そして、やたらとうんちがしたくて仕方がない。何度もトイレに座る。何回目かに、トイレットペーパーに鮮血が混じっているのを確認する。
「もしや、おしるし?!」
痛みがだんだん強くなり、リビングに移動する。痛みの感覚をメモにとりながら一人耐えていると、夫も起きてきて、わたしの腰をさすってくれる。
この状態で医大に行くのか……。そのままお産になったらどうなるんだろう……。
そんなことを思いながら夜が明けるのを待ち、朝、夫に付き添ってもらって医大に行く。

医大では長時間待ち、その間も定期的なお腹の収縮を感じながら、かなり大量の血を採血した。
そして、医師からの診断が告げられた。
「血小板の値が低いんですよね……?」と、笑い混じりに言う医師。「正常値ですよ」
……へ???

結局、クリニックでの血小板検査は、血小板に白血球か何かが混じっていたため血小板が凝集してしまい、参考値でしかなかったことがわかった。
(最初の検査が8.2万、次の検査が7.2万。正常値は13万以上。お産には10万以上が望ましく、最低5万以上と言われている)
医大での検査ではまったく問題のない、21万。
なんてことのない、数値がおかしかったにすぎない。

さっそく、純子先生に電話する。
「奇跡だ!」
と、非常に明るい声が返ってくる。
夫は、「なんだよ、それ……」と、失笑している。

わたしは、血液検査にお金と時間、そして多大な精神的負担がかかったことなど、どうでもよくなり、ものすごく足取り軽く家路につく。

仕事仲間に「何でもなかった!」と報告し、前駆陣痛が始まったから出産もそう遠くはなかろうと、最後に残った仕事の片づけに入る。
ものすごく集中し、細かい仕事はすべて終える。
そして、ちょっとごっつい、著名人インタビューは粗原稿まで終わらせて、明日半日使って推敲、コメント確認すれば終わるところまでもっていく。
時折、陣痛のような痛みがあったが、仕事に集中していたため、それほど気にならなかった。

この仕事さえ終われば、残り少ない妊娠生活を満喫できる。この週末は、最後の買い物と、赤ちゃんの肌着の水通しをできる。
その楽しみを胸に、0時ころ床についた。

プロフィール

キタハラマドカ(おでこが広いからtecoちゃんがニックネームでした)

Author:キタハラマドカ(おでこが広いからtecoちゃんがニックネームでした)
団地暮らしと酵母生活の達人目指す、フリーのライター・編集者。仕事は、生きることそのもの。水環境ジャーナリストを師匠に、鬼校閲者を友に、チーム仕事も繁盛中でございます。
ウエダ家とともにCOBOの普及活動に勤しむ、日本初のCOBOライターでもあります。
得意分野は、食環境、住環境、地球環境。地球温暖化や食の安全・安心、エコハウス関連の仕事が多い今日このごろ。仕事の内容についてはカテゴリ【work】をご参照ください。
夫と愉快な仲間たちがやっているNPO法人【Waveよこはま】のブログにてエココラムを執筆中。
このブログはのんびり気ままに更新中。

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☆キタハラ、2009年1月に出産いたしました☆ニンプ日記は未完のまま産後生活に突入。ぼちぼち、育児日記出産ドキュメント布おむつ生活産後の体のこと姿勢のことなどを書きつづっています。
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